帝銀事件:戦後日本を揺るがした毒殺事件の真相
1948年、第二次世界大戦終結から3年後、日本はまだGHQの占領下にあり、戦争の傷跡が社会に大きく影を落としていました。そんな中で発生した「帝銀事件」は、銀行内で14名が毒殺され、現金などが奪われるという残虐な犯罪であると同時に、冤罪の可能性もささやかれる、戦後日本の混乱を象徴する事件です。この大量毒殺事件の経過と、未だに解明されていない謎について詳しく見ていきましょう。
犯行の瞬間:閉店直後に現れた「白衣の男」
1948年1月26日、月曜日の午後3時過ぎ、東京都豊島区長崎の「帝国銀行(三井住友銀行の前身)」の椎名町支店では閉店後の作業が行われていました。そこに、白衣を着て「東京都防疫班」と記された腕章をつけた中年男性が訪れます。彼は「厚生省技官」を名乗り、名刺を見せ、「近隣で集団赤痢が発生しており、その予防のため薬を服用してほしい」と従業員たちに告げました。
この説明はGHQがもたらす絶対的な権威を背景に、十分に信じられたものでした。16名の行員や家族がその場に集められ、指示に従って薬を飲むことになります。
悲劇の展開:予防薬を装った毒物
どのようにして悲劇が進行したのでしょうか。白衣の男は「予防薬は2種類あり、順番に服用することが重要だ」と説明しました。彼は自ら「第一薬は歯のエナメル質を保護するため」として手本を見せ、行員たちは同様に舌を出して飲み込みました。しかし、直後に全員が激しい痛みに襲われたのです。16名中、12名が死亡し、4名が重体となりました。
類似事件から浮かび上がる真犯人の影
実は、この事件以前にも類似した未遂事件が起きていました。1947年10月、安田銀行荏原支店での事件を含む类似事件が報告されていたのです。しかし、これらの事件でも犯人の逮捕には至っていませんでした。警察はこれらの事件を同一犯の可能性が高いと考え、捜査を進めました。
捜査と重要な「731部隊」への言及
犯行に使用された毒物は青酸化合物であり、その専門性ゆえに警察は医療関係者による犯行を疑っていました。旧陸軍の「731部隊」も捜査対象となりましたが、最終的にはGHQの指示で捜査は中止されたと言われています。
無実を訴える平沢貞通の悲劇
逮捕されたのは画家の平沢貞通。彼は名刺に関連した唯一の「糸口」でした。名刺の所有者の中で、事件当時にアリバイを証明できなかったことから、平沢への疑惑が深まりました。平沢は「名刺は盗まれた」と主張し続けましたが、警察の検挙手法には人権侵害の批判が寄せられます。
その後、平沢は毒物使用の知識を持たないにもかかわらず、事件直後に大金を所持していたことでさらに疑惑が募ります。しばらく拘留された後、ついに彼は冤罪を訴え続けるも供述を翻し、有罪判決を受けることになりました。しかし、物的証拠は一切存在せず、彼の自供のみが唯一の証拠だったのです。
未解決の謎と戦後日本に残る影響
「帝銀事件」は冤罪の可能性が示唆され続け、長い間、社会の議論を巻き起こしました。この事件は戦後日本の乱れた時代背景を反映し、その解決は未だにされていません。このまま謎が解明されないままであれば、戦後日本の真実の一ページが永遠に閉じられたままとなるかもしれません。