大日本帝国憲法と歴史的舞台「花外楼」
歴史を刻む料亭「花外楼」と大日本帝国憲法
大阪を代表する料亭の一つである花外楼は、その歴史を幕末から明治時代にかけて刻んできました。「加賀伊」の屋号を掲げたこの料亭は、木戸孝允や伊藤博文、井上馨といった長州藩出身の志士たちが集う場所であり、特に明治8年(1875年)の大阪会議の舞台としても重要な役割を果たしました。この会議は、大日本帝国憲法の成立に向けた国の方向性を議論する場となり、大久保利通や板垣退助らも参加しています。
花外楼と元勲たちの交流
6月6日から8日にかけて開催される「ミニ歴史ミュージアム 明治の元勲とその周辺」では、木戸孝允や伊藤博文、井上馨が花外楼に残した書画や手紙が展示されます。これによって、明治時代の元勲たちの新たな一面に触れる機会が得られるでしょう。
木戸孝允と井上馨の恩義
明治・大正・昭和を生き抜いた花外楼3代目女将の徳光孝は、著書「花のそと」で、花外楼の恩人として木戸孝允と井上馨の名を挙げています。特に井上は財界で、伊藤は政界での影響力が大きく、これが花外楼に多くの名士たちが訪れる理由となったと記されています。
大日本帝国憲法に繋がる新政府崩壊の危機
今回の展示では、伊藤博文が大阪会議に至る経緯を記した覚書も出展されます。当時の明治政府は、征韓論や台湾出兵などを巡り意見が分裂し、政府の先行きが見えない状態でした。そこで伊藤や井上が重要な調整役となり、大久保利通と木戸孝允、板垣退助の対面を実現させました。この会議を通じて、国会開設に向けた体制づくりが合意され、これは最終的に大日本帝国憲法の成立に繋がる重要な一歩となりました。
調整能力の高い伊藤博文
覚書には、山口にいた木戸孝允のもとに向かおうとする大久保利通に対し、伊藤博文が「閣下自ら山口に行くのは政府の威信を損なう」という意味の反対論を述べ、大阪での会見を提案した様子が描かれています。師の吉田松陰から「周旋家」と評された伊藤の高い調整能力が伺える資料です。伊藤のこうした調整力が、後の大日本帝国憲法に繋がる道筋を整えたといっても過言ではないでしょう。
こうした歴史的背景を詳しく知ることで、花外楼が単なる料亭ではなく、日本の近代史における重要な場所であったことを理解できるでしょう。